きまぶろ

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こころ(夏目漱石)

NHKの100分de名著を読んでから、新潮文庫の「こころ」を読んだ。

 

 漱石は江戸時代最後の年の生まれ。明治元年に1歳、明治2年に2歳というように、明治とともに歩んできた。その明治時代は、日本の古い制度が破壊され、国にも、教師にも、親にも模範となる人物がいなかった。

 制度で定められた教師など、名ばかりのものにすぎない。以前であれは、「この人」と見込んだ人のもとに行き、先生として仰いできた。先生側も、気構えが変わり、真剣に育てようとした。それが、明治になってからは教師なども、客から金をもらって一時的に遇している宿屋の主人のようなものだし、生徒などは金を払って一時的に滞在している宿屋の客に過ぎない。生徒は増長して、教師も堕落して当然。

 「こころ」の作中でも、「私」は東大の先生も親も自分を引っ張って行ってくれる存在とは感じていない。ふとしたきっかけで、孤高の「先生」を見つけ、慕うようになる。

 先生は大学教授でもなく、中高の教師でもない。体が悪いわけでもないのに、何の仕事もせず、何の活動もしているようには見えない。当然、社会的地位もなく、収入もない。

 死ぬべき時を待ち、死ぬべき場所を探していた先生も徐々に心を開き、最後に遺書という形で「私」に過去を語る。過去を語る前に、「私」に対して、「真面目」であるかを再三確認してきた。この真面目というのは、相手を信じて自分のすべてを投げ出せることと、それに向き合った人は、相手が命がけで投げ出したものを丸ごと受け取ることを指す。

 そして「私」先生の生と死を伝える語り部となる。

 

 「こころ」が書かれてから百年以上が過ぎたが、現代でもなお同様な問題は解消されていない。私の経験上も、師として尊敬できる教師はいなかった。教員免許を持ち、職業として教壇に立っているだけにしか思えなかった。これは教員だけに限らず、社会に出てからも模範となる人には出会えなかった。

 どんな知性を持つ人であっても、ひとたび糊口をしのぐための道具として使ってしまうと、とたんに俗世の手垢にまみれてしまうのなら仕方がないだろう。それに私に見極める力がなかったせいもあるかもしれない。私がいつでも「真面目」に向き合えるように、自分を高め見識を深めることを忘れないようにしたい。