きまぶろ

本とアニメと気ままな生活のブログ

自然はそんなにヤワじゃない(花里孝幸)

第一章 生物を差別する人間

 「雑草」という言葉は人間の都合で付けた呼び名である。その植物が人間の役に立つか立たぬかという判断がそこに入っている。刈っても刈っても雑草が生えてきて困るということは、そこにはそれだけ高い植物生産力があり、それを支える地力があるということになる。

 日本人が池を作るとまずそこに魚を入れるだろう。日本人にはそのような固定観念があり、それが考え方の多様性を失わせている。

 小さな虫を嫌がり、軽く扱おうとする感情は国境を越えて多くの人間に共通している。虫けらは寿命が短いので、環境が短期間で大きく変化するところで暮らしてきた。対照的に人は比較的安定した環境下で暮らしてきた。人間よりも短い期間で成長し、子を産むというのはある意味、人間よりもすごいといえる。

 絶滅危惧種のトキを放鳥したら、絶滅危惧種のカエルを食べ尽くしてしまったという事例もある。人が魚を放流すると大型ミジンコが食べ尽くされてしまい、今まで大型ミジンコに競争で負けていた小型ミジンコが栄えるといったこともある。湖の生態系を語るときに、人は魚にのみ注目してしまう。

 南アルプス聖岳ではミヤマキンポウゲやホソバトリカブトの花畑があったが、近年のシカの食害のせいでマルバダケブキが優占するようになってしまった。ここで人は、シカを柵で囲い込み、ミヤマキンポウゲなどを保護したがる。数を減らしてしまったミヤマキンポウゲをかわいそうと思うらしい。実際にはミヤマキンポウゲなどのせいでマルバダケブキは細々と暮らすしかなかったのにである。

 大型のナガスクジラ類が人により減少すると、小型のミンククジラ類が増加する。これは餌となるオキアミをめぐる争いで、ナガスクジラの方が強いことによる。ナガスクジラが多かったときは、ミンククジラはオキアミを食べることができず、仕方なく魚やイカを食べて飢えをしのいでいた。魚やイカはオキアミより捕まえにくく、しかも現存量が少ない。捕鯨を禁止すれば、ナガスクジラの数は増え、餌となるオキアミは減少する。するとミンククジラがカタクチイワシやサンマを捕食せざるを得なくなる。この量は人間による漁獲量よりも多い。

 微生物を湖や池に投入すると水質が浄化されるというのは勘違いである。これは下水処理場の浄化システムが誤解の原因になっている。下水処理場では水中の有機物を食べた微生物は処理層の中で沈殿し、のちに除去される。この除去により有機物が減り、微生物そのものも除去することで水中の窒素やリンも取り除ける。一般の環境では微生物を投入してしまうとその微生物が増えてしまうし、分解した無機物も植物プランクトンにより再び有機物になってしまう。下水処理場で、あるいは農地で、体内で良い働きをしてくれる菌だからといって、どんなところでも人間に恩恵を与えるとは限らない。

 汚れた湖に多いユスリカの成虫には口がなく、人や動物を刺さない。幼虫はボウフラに似て、水草の表面にしがみついている。幼虫の餌は固定に沈んだ植物プランクトンである。成虫となり、ユスリカが湖岸に辿りつくと蚊柱を作る。羽音でコミュニケーションを取っている。ユスリカのせいで洗濯物が汚れたり、窓を開けられなくなるという被害がある。諏訪湖で下水処理施設を作りしばらくするとアオコが減少した。続いてユスリカも減少。するとユスリカを餌にしていた魚の成長が鈍るようになり、漁獲量が減った。しかもユスリカは湖底の窒素やリンを除去する働きもあったので、湖底の水質悪化の一因にもなった。人間の活動で窒素やリンが湖に流入するが、逆にユスリカはこの窒素やリンを湖の外に戻す働きをしている。

 人が手を差し伸べて、上から目線で保護しようとすると、そこの環境を変えることになり、それにより別の種が新たに絶滅危惧種になる可能性もある。

 

 

第二章 生物多様性の誤解

  ある地域の生物多様性が10種から100種になれば、安定化するかもしれないが、1万種が10万種になっても本当に安定化するのだろうか。

 生態系の中には人間にとって有用な遺伝子を持つ生物がいるかもしれないが、その遺伝子が有用であることを人類が発見できるかはまた別の話になる。そのような発見できるかどうかも怪しい遺伝子を多くの労力、エネルギーを費やして維持する価値はあるのだろうか。コストに見合うリターンがあるのだろうか。ただ直感的に人間が不安を感じただけなのではないのか。人間の不安を取り除くという意味では生物多様性は重視すべきだろう。

 自然環境に負荷を与える人間活動はすべて悪であるという考えは間違いである。一般的には競争に強い種ほどストレス耐性(殺虫剤耐性、pH変化耐性などの環境変化耐性)が弱い。競争にも強く、耐性も強い種がいたとしたら、どんな環境でも優先種となってしまうからである。殺虫剤のおかげで競争に弱かった種の勢いが弱まり、多様性が増すことがある。これは人間の攪乱行為で多様性が増す例である。中程度攪乱仮説とも呼ばれ、適度な攪乱が生態系を豊かにすることが知られている。

 魚がたくさん棲めるきれいな湖にしようということばを聞くが、大いに疑問である。これは、自分が好きな生物は自分と同じ環境を好むはずという思い込みが原因である。きれいすぎる湖では主に窒素、リンの不足が原因で植物プランクトンが育たない。つまり魚も住めないことになる。水質汚濁の進んだ湖の方が多様性は高い。

 湖が富栄養化すると食物連鎖が長くなる。食物連鎖が長くなると、餌となる生物グループの多様性を高める。

 陸上で最も生産力が高いのは熱帯林である。人間は生産力の高い熱帯林を保護しようとしながら、逆に水質の浄化をもくろんでいしまっている。水質浄化は生物多様性を低下させてしまうのに。これは、人が湖や川に対しては、良質な水資源を望んでいて、澄んだ水を見ると爽快感があるからかもしれない。確かに浅い湖で水が澄むと水草は増えるが、目に見えにくいプランクトンなどの微小生物も含めると富栄養湖の生産力には及ばない。

 洪水は短期的には川の生物にとっては災いとなるが、のちには豊かな生物群集が造られるので、長期的には多くの生物に恩恵を与えていると言える。環境の空間的、時間的不均一で高い生物多様性を維持できる。

 人間はビルや道路など様々な構造物を作ってきた。その構造物が造る環境を好む生物に対しては、人間は新たな生息場を与えたことになる。あるところには森林、あるところには都市というスケールで見ると、森林だけのときより、生物多様性は高いと言える。

 人間も生物であり生態系の一員である。人間そのものが他の生物にとって環境因子になり、ある地域の多様性を下げることもあるが、逆に高めることもある。

 

第三章 人間によってつくられる生態系

  温暖化が問題視されているが、温暖化で増える生物もいる。生物多様性問題が生じたのは、身近なところで様々な生物種が姿を消していることに気づき、不安を感じたの発端であると思われる。確かに大型の優先種は減少したが、そのおかげで小型種が増加している。

 生物の生存戦略はおおまかに分けると2つある。ひとつはr-戦略者で、生まれたらとにかく早く成熟し、多くの子を生む。体は小さく、寿命は短い。そして高い分散能力を持つ。r-戦略者は資源に制限がない場合は指数関数的に増加し、増加率はdN/dt=rNで表される。(N:個体密度、t:時間、r:内的自然増加率)r-戦略者はr(自然増加率)にエネルギーを集中して注いでいるため、資源不足耐性が低い。これを高い分散能力で補い、不安定な一時生息場所での生息に適している。哺乳類だとネズミ、消耗品費物だとイネ、ムギ、トウモロコシなどの一年草が該当する。

 もうひとつはK-戦略者で、体が大きく、大きな子を生み、成熟に時間がかかり、長寿命で高い競争力を持つ(込み合いに強い)。しかし、環境変化には弱く、分散能力も低い。個体密度の増加率はdN/dt=r(1-N/K)Nで表され(K:個体密度の限界値、または環境収容力)、グラフはS字曲線となる。哺乳類ではヒト、クマなど、植物では高木樹、とくに陰樹などが例である。ヒトは自身もK-戦略者だし、K-戦略者の優占する安定した環境を好んできた。

 「人間による生態系攪乱は、生物多様性を喪失させている」というのは誤りで、「人間による生態系攪乱は、K-戦略者的生物を減らし、r-戦略者的生物の優占を導く」というのが正しい。r-戦略者が優占している生態系は不安定で、人がそこから恩恵を受けるには生態系をうまくコントロールする必要がある(田畑、里山など)。

  食物連鎖の一段階ごとに運ばれるエネルギー量は約1/10になる。食物連鎖の頂点にいるヒト目線だと、食物連鎖が短いほうが効率が高い。

 環境変化を通して、様々な生物種に影響を与えている人間の存在も、彼らにとっては一つの環境要因に過ぎない。

 過去にも地球規模で環境を改変した生物がいる。30億年前に誕生したシアノバクテリアだ。嫌気性細菌にとってシアノバクテリアは極悪人だが、今の地球上に暮らすほとんどの生物にとっては神様である。

 人間のせいで絶滅する生物種もいる一方で、人間のおかげで栄える生物は今後も増えてくる。ヒトの環境改変よりも急激な改変は過去にもあった。

 

第四章 生態系は誰のためにあるのか

 どの生物種も自らが生き残ることに必死で、多種のことを気遣ってはいない。それでも生態系は個体数を変動しながらバランスが取れている。

 ライオンを食べる生物がいないのはなぜか。これはライオンが強いからではなく、ライオンの現存量が少なく、ライオンを餌とする生物がまだ生まれていないだけ。

 ある生物種が生きていくと、必ず他の生物種に圧力をかけることになる。人間以外の生物は他の生物への影響には頓着せず生活をしている。自分の種の存続だけを目的にしているかのようだ。ヒトも自分の種の存続だけを目的にしても良い。目的にすべきとまでは言わない。

 人間は生まれ育った場所の生態系を好む傾向がある。子供時代に不安の少ない日々を過ごしていたので安心感があるのだろう。つまり感情由来であって、客観的な視点とは言えない。「昔の水田の環境を取り戻そう」という話は聞くが、「ヒトが水田にしてしまう前の環境を取り戻そう」という話は聞かない。「魚を増やそう」という話もよく聞くが、魚はミジンコにとって天敵なのに、魚を増やしてしまってよいのだろうか。

 K-戦略者の優占する生態系に人間が手を入れ、r-戦略者のモノカルチャーを目指したのが水田だ。その水田に多様性を求めるのは矛盾している。同様に、里山保全生物多様性のためではない。人間の生活空間や文化を守るためである。

 生態系は人類のためにあり、人が望むものへと改変して良い。人類に利益を与えてくれる生態系を保存しても良いのである。できれば今の人類だけでなく、百年後、千年後の人類まで生き残れるようにしたい。

 生態系はタフである。いかようにも適応して形を変える。同時に、生態系は冷淡でもある。適応できなくなった生物を容赦なく切り捨ててしまう。もちろん、人類も例外ではない。人類も簡単にはじきだされ、見捨てられるのだ。地球には人類は不必要だが、人類には地球は必要だ。

 病気や戦争による人口減少は好ましくない。人類は精神活動が活発で、心に大きなダメージを受けてしまう。平和的な人工減少が望ましい。日本は2006年から人口が自然減に転じた。人工減少を前提とした社会を作り、対応していきたい。

 人間は視覚に強く依存している。外見の姿から「かわいい」という感情を持つ。これが生物差別につながってしまったが、これは人間の本性なので問題ない。かわいいと思う感性は人の心を癒す働きもあり、人間にとっては意義がある。しかし、その感性のために生物を主観的に見てしまうことを促した。一部の生物を守ると、必ずそれによって不利益を被る生物が出てくる。客観的な視点を持つようにしたい。生態系には微小生物をはじめ、我々が認識していない生物種も多い。常に生態系全体のバランスを意識しながら行動するべきである。