きまぶろ

本とアニメと気ままな生活のブログ

脇道にそれる(尹雄大)

 筆者自身の生い立ちも振り返り、大勢の人からインタビューをして考えたことを書いている。他人の評価のみに依存し自分を社会や常識の枠にはめようとする生き方だと、いつになっても自信が持てず自分と向き合うことなど夢であると繰り返し述べている。

 

 効率や伝統と言った出来合いの概念を使って断定的に述べる言葉をよしとする風潮は強まっている。不安と恐怖によるものだろうが、そこに息苦しさを感じている人もいるはずだ。今の社会に合わせるから苦しい。しかし、社会から脱することもなかなか難しい。社会に属しながら、完全に与さずに生きられる道を探したい。

 

 人は共感されないと不安になる。間違ったことを言うのが怖い。自分でいちいち真偽を判断する自信がない。「いいね!」という評価に共感し、それに依存することで安心が得られる。社会の構成員としてカウントされるに値する自分になっていると確認できるからだ。

 

 間違いかどうかなんて、実際に言ったりやったりしてみないとわからない。そもそも誤りだったとして、それは誰にとって問題になるのか。他人ではなく自分にとって問題になるということではないか。間違いは結果としてわかるもの。試してもいないのにいわかるわけがない。自身があろうがなかろうが間違えるときは間違える。しかも間違えたところで自身を失う必要もない。なのにおっかなびっくりなのは、今なお誰かに叱られることを恐れ、褒められることを期待し、自分の言動を決めていることになる。

 他人になりたがり、自らを損なうことを続けると自分が自分でなくなり不信が募る。そして共感を通じて他者の価値観に依存することになる。しかしそれは自身を高めない。自信は内から湧き起るものだ。

 自己実現ということばが使われるとき、それはありのままの自分になるのではなく、評価される何者かになろうとして、今の自分を超えることを指している。

 「あいつよりも私の方ができる」「もっと理想的な生活を目指す」のように、他者や現時点での自分と争い疲弊する。他者の評価をよすがに、嘘でもいいから法んとうだと信じさせてくれる何かを願っている。

クリエイティビティを発揮するには多様性が大事である。一方、教育と名の付くものは人を一律に揃えさせ、逸脱することの恐れを植え付けてしまっている。他人と違う試みを恐れず、その振る舞いが存分にできる環境を整える。協調性ありきではなく、まず個の振る舞いを認めるようになりたい。

 社会的にステータスのある職や資格を手に入れ、「常識」とされている知識、法、秩序に則らなければ「まともに生きていくことはできない」という教育がなされている。このため恐怖が内在し、決断を迫られると生理的反応が起こってしまう。現実に対してではなく、単なる想像上の恐怖に対するリアクションだ。

 自分のポジションを群れの中に見出して安堵したい。他人の眼差しの中に自分がいて欲しいという気持ちでは新たな可能性は生まれない。物事に夢中になっているとき、他者は眼中にない。恐れもない。明確なゴールも期待もなく、没頭している行為だけがあり、そして結果が生じる。上手くやろうなどと考えず、ただ行うという行為には自己満足しかなく、他人の評価を気にする魂胆が入り込む隙がない。

 いまの日本では親の心に宿るのは愛情だけでなく、「社会からの要請に従って欲しい」という魂胆もある。「現状の社会に合わせて生きるのが良い」という価値観と信念の親の元で育てられれば、愛情は受けられても満足を得られぬまま成人し、今まで得られなかった肯定感を得るため自己実現を果たそうとする。承認欲求を満たすべく他者に依存する。そうなると自立は努力目標であり、実現不可能となる。教育という名のもとに自己満足、自己実現を阻まれている。自分らしくあることよりも、社会に適応することを第一義とした「生存競争」である。

 「おまえを愛しているからだ」という言葉で正当化される干渉、支配的振る舞いが「私の望むおまえであらねばならない」と迫って来る。それは愛ではなく、個人的なストーリーを強いているだけだ。

 常識は「社会い合わせろ」と努力を迫る。しかし、克服に向けた努力は、解決を求めることとと引き換えに自分を見つめることから逃げている行為とも言い換えられる。

 人の評価で自分を値踏みするのは現代病である。他者評価から降りてみよう。