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縮む世界でどう生き延びるか?(長谷川英祐)

 日本が始まってから、人口・経済規模は大きくなり続けてきた。2010年に人口減少に転じ、今後も人口減少が続く。生態学と経済学は似ているが、経済学は規模の拡大を前提とした研究ばかりである。縮む世界で生き延びる生物の生き延び方を参考に、今後の経済や生き方のヒントを与えてくれる一冊。「働かないアリには意義がある」の著者が、忌憚なき意見を吐いている。経済学などの分野から反論・反感を買うのが容易に想像できるくらいに直球である。科学界の問題点にも言及している。

 

 不安でたまらないのは私たちが「縮む世界での生き方」を経験したことがないからである。どんなにみっともなくても生き物は最後まで生きようとするし、結果後して状況に応じた生き方ができるようになったものしか生き残れない。縮む世界で生きている生き物はその状況で有利になる生き方をする。つまり低成長の環境に「適応」しているのだ。この世界のすべての生き物は適応進化のプロセスを経て、35億年前の生命誕生以来、ずっと生き延び続けている。経済学は産業革命以降の経済状況を分析するために生まれ、縮む世界での経済活動を扱ったことがない。世界が縮むのが運命ならば、拡大する世界を作ろうとしても無駄である。

 増えたものはいつかは減るというのは生態学の常識だ。大腸菌は条件が良いと20分に1回分裂し、13時間余りで1兆倍にもなる。実際にはエネルギー、利用可能な物質、空間が有限なのでシグモイド曲線(S字カーブ)となる。個体数が頭打ちになる限界を環境収容力といい、Kで表す。Kに達したらその後は死ぬ個体のため数は減少する。一般論として数がたくさんいる生き物は見つけるのが容易になるため餌として利用されやすく、捕食圧が高まり数が減る。ヒト以外の生き物は常に食べ物がみつかりにくい状態にあるから、ある種の餌が増えたらまずそれを捕食する。捕食以外にも生き物の間の競争でも数がへる。生き物の数は原理的には一定に保たれることが可能だとしても、環境変動もアリ、増減を繰り返す。つまり増えたら減るのである。

 実際にある程度以上の相互作用の強さを持っている個体の集まり(=遺伝子プール)を「個体群」と呼ぶ。進化は種ではなく、個体群の中で起こる。種とは生物学的に必要な単位ではなく、人間同士のコミュニケーションや認識を助けるためのツールに過ぎない。遺伝子→個体→(コロニー)→個体群のように「個(=単位)」は階層関係があり。それぞれの層で自然選択が働く。下位単位と上位単位に利害対立があるときは

下位単位の利益を満たすように進化する。個体の利益を犠牲にして集団は存続できない。あくまで個体が有利になるから集団が維持されるのだ。上位単位の個の機能に選択圧がかかり、、下位が進化する。人間は2種類の階層がある。個人→部族→国家という防衛の階層と、個人→企業(自営業も含む)→経済社会という流通の階層である。最上位単位の国家と経済社会に矛盾が生じ、個体に不利益になるという、生物ではありえない状況が起きている。

 長期間同じニッチで競争する2種の生物は競争緩和の方向に進化する。それぞれの種しかいない領域の中心にいる個体の形質は同種間で似ているが、境界域でははっきり異なり、「形質置換」と呼ばれる。

 個体群が急成長するのは「ニッチに敵がいない」「急に環境が良くなる」などのときで、拡大する世界では急成長できる性質が有利となる。だが、自然の消費・枯渇、環境の変化、捕食(病原体も含む)などの要因で世界は縮み、個体数は減るのである。ただ、個体数が減ると言っても、絶滅を意味するわけではない。

 生き物は常に所属する個体群の増減を経験して生きている。バクテリアは急拡大できる性質を持っている。イントロンのある状態のほうが祖先に近く、バクテリアイントロン欠如のほうが後から進化したと見られる。「分裂のスピードアップ」のために、イントロンを捨てる方向に進化したのだ。急拡大の方向に進化したとしても、リスクヘッジをしないといつかは絶滅してしまう。全滅のリスクを避けるため、急拡大できる生き物はベット・ヘッジングをしている。

 急に増えられる環境は不安定と言える。不安定な環境では個体は成長を早め、多産し、逆境に耐え得る形質と適応力を持つようになる。徐々に小さくなる世界は極相林や地中、深海などで、安定した環境とも言える。っこでは生物はゆっくり成長し、長寿になり、子供を少しだけ生む。

 短期的な効率を上げる性質と、長期的な存続性を確保する性質は両立しない場合が多く、トレードオフの関係にある。

 アリのコロニーには働かないアリがいる。これは働くアリに仕事を取られている状態とも見て取れる。個体ごとに「仕事が出す刺激がどの程度になると働き出すか」の値(反応閾値)が異なる。働いてないアリだけを集めたコロニーを作ると、一部は働き始めるし、働いているアリだけを集めたコロニーを作ると、一部は働かなくなる。疲れたアリのために働く交代要員のようなものだ。働くアリが卵を舐め続けることでカビの発生を防いでいる。隙間時間ができてしまうとカビ発生でコロニーが全滅する。全員が働いて短期間効率を高めると他コロニーとの競争には有利だが、短い時間で全滅するのだ。

 「囚人のジレンマ」などのゲーム理論は現実をうまく説明できない。人間社会、特に小さな社会では裏切り行為そのものが原因でペナルティを受けてしまう。また、罰が取るに足らないと思える人は、自分の尊厳を優先する。本人の価値観を考慮していないのだ。

 個体数の増減は「r-K選択」である。rとは増加率特化で、短寿命、多産、低コストの体、長い時間を耐える休眠ステージがある。Kは収容力特化で長寿命、少産、頑健な体を持つ。いずれもリスクヘッジしていない極端な種は滅ぶので、現実の生物は両極端のあいだのどこかにいる。飽和した世界では空きが出るまで待てる持久力が大切である。

 現代の進化生態学では「次の世代にどれだけ遺伝子のコピーを伝えたか」だけを適応度としている。このモデルだと長寿の生物が存在するのは不自然である。物差しが違うからである。縮む世界では次世代への適応度という指標では分析できない。遺伝的貢献度を変化率(微分)だけでなく、調べたい将来までの積算(積分)で考えるような枠組みが必要だ。

 アリの場合、コロニーを大型化するのは増えられる環境のときに有利になる。大規模化で素早く資源を独占できるし、分業により効率アップもできる。逆に安定した環境では他の生息場所はすでに他のコロニーに占有されている。営巣場所を変えられないし、大規模化すると維持コストが大きくなって苦しくなる。ワーカーも単一で汎用性が高いほうがよい。縮む時は「滅びない」ことが最優先となる。

 生物は万能ではない。万能な生物がいたら、世界中その生物のみとなる。万能ではないということは、ある能力が別の能力とトレードオフになり、特定のニッチでしか生きられないということだ。どう振る舞うのが有利になるかは環境によって異なる。

 「競争」という言葉から誤解を受けがちだが、「競争」イコール「増殖競争」と勘違いしやすい。成長が遅く、少産な生き物は適応の結果である。

 企業の良否は規模ではない。構成員に充分な給料を払い、企業自体が存続していくために必要な金が入ってくれば成立する。マクロ経済のインデックスはどうしても大企業の寄与度が高くなってしまうため、大企業の動向が注目されやすい。ニッチの数だけ適応戦略もあり、大きくなることが勝利とは言えない。

 縮む世界では小さく特殊な経済ニッチをみつけ、他者が真似できない売り物を用意する。生物の世界では努力さえすれば報われるとは限らないが、努力しない者が報われることはない。

 縮む世界で幸せに生きるには、どう振る舞うのが適応的だろうか。「個」として小規模であること、小さな利益を確実に確保できること、利益が出た場合、それを生産増大や消費に回さず、「個」の耐久性を高めることに使うこと。これは個にもコロニーにもあてはまる。

 遺伝・変異・選択が存在するものなら適応進化が起こる。思考パターンも時間軸に沿って受け継がれ(遺伝)、変異・選択がある。そのため思考とそれに基づく行動も当然進化することになり、文化的進化と呼べる。現代人の思考の特徴は指標として満足度(幸福度)を置いてみるとわかることがある。経済的豊かさなしで満足感を高めるように思考や行動が変化したと考えられる。お金をかけずにできることで満足し、多くを望まない。ささやかなことで満足する。「草食系」は文化的に適応し、進化した形と考えられる。

 上位ユニットと下位ユニットの利益が対立した場合、下位ユニットの利益への最大化へと進化し、その動きは止められない。社会や将来への責任などを論じても無駄である。たとえ国が破綻しても個人は生き続けることができる。どんな世界になってもそこにはそこでの幸せがある。「滅ぶぞ」などという煽りで不安になったり、一喜一憂したりしない。

 生物と違い経済では、実際に存在する貨幣の量によって利用できる資源量が増加する可能性があり、利用できる環境そのものを広げられるかもしれない。また、需要を生み出すのは人間の欲望なので、人間の欲望が大きくなれば経済規模も拡大する。これらのせいで、経済は無限に大きくなるという錯覚が起きる。

 社会体制や企業の在り方、個人の考え方、行動パターンも環境に適した形へと進化する。今それが多数派だからといって、有利であるとは限らない。環境次第である。

 温暖化防止のための二酸化炭素排出削減や成長維持のための経済対策は牛車に向かう蟷螂の斧に過ぎない。適応の先に有利になるニッチがあるならば、「近頃の若い者は」というのは的外れである。近頃の若い者は適応し進化しているのだ。

 撤退は怖くない。周りに合わせなくともうまいやり方はある。

 科学において「そうである」とは「今のところ正しいとしておいて差し支えない」ということで「絶対」だったり、「永遠」に正しいというわけではない。「そうである」と思われてたことを「違う」と示せるほうが貢献度は大きい。教科書に書かれていることよりも、そこに書かれていないことは何かを知るのが大事である。科学の世界では査読システムのため、査読にパスしやすいことを論文にしてしまい、しだいにやる気がそがれていく。方向づけられているものに逆らっても評価が得にくいのである。「お言葉ですが、先生、それで幸せになりますか?w」と言いたい。

 

関連図書:

・働かないアリに意義がある(長谷川英祐)

自然はそんなにヤワじゃない(花里孝幸)