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歎異抄(釈徹宗) 100分de名著

 歎異抄は、親鸞が著したものではなく、親鸞亡き後に、師の教えとは異なる解釈が広まっていることを嘆いた弟子唯円によるもの。「異義を歎く」が署名の由来。原本は存在せず、写本ごとに違いがある。第一条から第十条までは親鸞の教えや語録、第十一条から十八条までは唯円の解釈となっている。

 浄土仏教の思想の根幹は阿弥陀の本願(他力)によって救われることであるのに、当時は功徳を積む(自力)という考えが広まってしまった。

 親鸞は1173年、下級貴族の長男として生まれ、九歳から二十年間、比叡山で修業をする。法然栄西道元日蓮、一遍も比叡山で修業をしている。二十九歳の時に法然の門下となるが、既存の仏教勢力からの敵対により僧籍を剥奪される(承元の法難)。その後、常陸国で文化活動を続け、90歳で入滅。

 末法思想が流布していた時代で、「阿弥陀仏の本願によって誰でも浄土に往生できる」という、法然が説いた平易な念仏の道筋が広まる。厳しい修行のできない凡人は仏の名を称えるだけでよい(称名念仏)。誰もが実践できることから「易行」と呼ばれ、厳しい修行が必要な「難行」と対極にある。どんな生活の形態であっても救われるという点で、非力な弱者の宗教都市して広まった。本来は悟りを目指す仏教を、救いを求める仏教へと法然が再構築したもので、再構築であるゆえに誤解も生じやすかった。

 念仏を称えようとする心が起こった時点でもう救われることが確定する。こんこんと煩悩が湧き上がるような人でも大丈夫。

 聖道(人間愛、ヒューマニズム)の慈悲はいずれも自分の都合によって歪んだ愛情で、真に他者を救うことはできない。だから、それぞれが浄土へ往生し、仏となって人を救うことを目指す。これを浄土の慈悲と呼ぶ。社会奉仕などは不完全な善で、自分の都合である。善いことをしている気になって満足してしまう。自分は正しいと思った瞬間に見えなくなるものがあり、慈悲の活動を目指していても偏ってしまうものだ。浄土い往生して悟りを開いたら、まずは家族、縁者にはじまり、最終的にはすべての人を救う。

 自分の能力によって人を導いているなら弟子といえるが、そうではない。仏の目から見れば優劣などない。そのため、親鸞は弟子をとらなかった。

 親鸞は自分自身の知も信も不完全であるという立場をとった。それらは自分の都合に彩られているからだ。

 自分の影の部分が見えるのは、阿弥陀仏の救いの光が当たっているからに他ならない。

 「機」とは対象のこと。正機とは真ん中、どストライクで、傍機とは中心をはずれた対象を指す。他力の仏道においては悪人こそが正機である。善人とは自分で修めた善によって往生する人のこと。浄土の意味は(浄土宗の心は)凡夫すなわち悪人のためである。「善人なおもって往生す。いわんや悪人をや」これは、親鸞のオリジナルではなく、法然のものであり、悪人正機説と呼ばれる。素晴らしい善人たちですら浄土を目指したのだから、仏の本来のめあてである私たち悪人はなおさら目指さなければならない。

 自分のことを善人だと思っている人間の傲慢さはどうなのかと疑問を呈し、一般的な社会とは異なる価値観を追った。そこにこそ宗教の本領がある。社会とは別のものさしがあるからこそ、人は救われるのである。

 他力念仏は自分の力で実践している修行ではなく、善を積んでいるわけでもない。高い専門性を必要とせず、誰もが歩める平易な道である。また、他力念仏の道はピラミッド型の構造ではなく、横並び構造の性格が強く、各グループで指導的立場の人が現れると、その人独自の解釈が展開しやすい。これらのため、他力念仏は異義が出やすい。歎異抄は、体系内でのリミッター(暴走抑制装置)の役目を果たすために書かれた。

 法然の時代からも、何度も念仏を称えるべきという念仏重視の多念義派と、ただ一回の念仏でよいという信心重視の一念義派があり、どちらが優位か争っていた。多念義は一般的な仏教に近く、一念義は浄土宗の存在意義である。このどちらに偏っても良くないと親鸞は考えた。本願を信じて念仏すれば、往生できる。教義を学ぶ必要はない。自分の歩む道が他宗派から非難されても、愚かな私にはこの道しかない。ことさらに議論をしたり、自説を主張して相手を非難すると、誤解も受け、他力の教えからも逸れてしまう。

 法然は「愚者になりて往生す」と言った。愚者とは自分自身の愚かさをよく自覚した者のこと。煩悩を捨てることができない愚者は、その身のままで仏の願いにより往生する。

 従来の枠組みからは零れ落ちる人々のため。

 状況によっては我々は何をしでかすかわからない。一念義を批判し、善を押し付けてくる人たちに「望まなくとも悪を犯すのが我々の実相である。そもそも我々は他の生命を奪って生きている身ではないのか」と応えている。

 現存する親鸞の手紙に「薬があるからといって、毒を好むのは間違っている」とあり、一念義で救われるからといって、わざと悪い行いをするのも間違っている。

 「臨終の念仏で罪を消そうなどというのは、我々とは別の教えである。我々は信心が決定した際に往生させていただける身になる。そして臨終で罪や煩悩を消さなくとも、罪や煩悩がそのまま悟りになる」そもそも罪を消すために念仏をするという功利的な態度は「自力」であって、「他力」ではない。従来の浄土仏教は善行・功徳を積み、自力で往生する臨終来迎で、親鸞は信心をいただくと当時に往生も定まるという現生正定聚という考えである。

 自然(じねん)とは、阿弥陀仏の願いの力によって、あるがままにおのずとそうなること。

 真実の世界を「真如、如、一如」などと言い、如とはこの現象世界の根本のようなもので、そこから姿を現してやって来るので「如来」と言う。拝む姿として、仮に仏の姿を定めているが、あくまで仮の姿であり、仏に大小はない。

 「智慧や学識で信心が決まるのであれば、もちろん私は法然さまの足元にも及ばない。しかし、仏様によりいただく信心なのだから同じ一つのものである。阿弥陀如来の本願とは、煩悩にまみれた私親鸞をお救い下さるためにある。」

 「何が善で、何が悪か、私にはわかりません」これは何を見ても、自分の都合というフィルターを通してみてしまうから。

 宗教と言う領域は社会とは異なる価値体系を持ち、ときには反社会的行動にもつながる。安易にそうならないためのリミッター(暴走抑制装置)が必要である。浄土真宗では歎異抄がリミッターの働きをしている。現代では、いま自分が抱えている苦悩に都合がよい宗教情報を求めるという態度で宗教を活用する傾向があり、宗教が道具箱化している。宗教のパッチワークにはリミッターが効かず、暴走しやすい性格がある。

 現代人は宗教情報を消費している。新しいものが、古いものを追いやり、更新され、また消費する。次から次へと情報を求めて迷うばかりで、生き方を定められていない。

 現代人は昔の人よりも忙しいと感じる。イライラしたり、急き立てられたり、キレやすくなったりしている。外在的な時間をいくら余らせても、内在の時間が収縮してしまっている。短い時間に生きているので、ちょっとしたことで辛抱できなくなっている。内在的な時間を延ばす最大の装置は宗教儀礼である。大きな時間の流れのなかに身をおくことができる。私たちは自分のものさしで社会や人を計りながら暮らしている。しかし、仏のものさしと出会えば世界が一変する。

 どんなにいとしい人でも思いのままに助けることはできない。私たちは不完全なことしかできない。しかし、それを自覚したときに、何一つできないことがわかったときに私たちは何をするのか。