きまぶろ

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禅僧が教える 心がラクになる生き方(南直哉)

先日読んだ「自己肯定感がドーンと下がったとき読む本」とは真逆の発想も多いが、行きつく先に共通点も多い。

 

(1)自分とは何か

 人間の体は3か月で細胞ほぼ入れ替わり、別人になる。心も自分自身の記憶と他人からの承認で成り立つ脆いもの。人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられた。生まれる日時も場所も親も自分で望んで生まれたわけではない。その自分を受け入れるには他人の承認が必要になる。

 仏教では自分の存在は「たまたま生まれてきた借りもの」であり、生きる意味など不要。

 なりたい自分になれなくてもよい。人生を棒に振ってもよい。もともと人間は受け身の存在。こうあらねばとむやみに力を入れるのは不自然である。たいちのことはやりすごして問題ない。人生の最後に振り返ったときに、多少の満足といくつかの公開が残るのが普通。ラクに生きれば、ラクに死ねる。

 感情や損得はおいて、職人的に生きてみる。見栄やてらいがなくなる。自分自身への評価は要らない。自分の仕事が評価されればよい。自分が満足できる仕事をするという意味で職人を目指す。

 生死以外はたいしたことではないし、自分で決められることなど些事である。条件が変われば状況も変わり、その決断は通用しない。すべてを自分で決めて自分で変えられると思うのは間違い。どちらを選んでもつらいとおもっておけば後悔は小さい。

 おかれた場所で咲く必要はない。やり方によっては咲くこともあるかもしれない程度にとどめておこう。

 人生には意味などないというところからスタート。

 

(2)夢や希望という重荷を下ろす

 現実世界ではほとんどの物は夢破れる。夢が破れても生きていける。何の問題もない。安心してよい。本当に偉いのは夢や希望をかなえた人ではなく、夢に破れても生きていく人。人間にとって挫折は大事である。損得勘定から離れられるからだ。損得から離れ、自分が本当に大事にするものを見極めることができる。そして努力が報われるかどうかわからなくても歩き始める。

 欲しい欲しいとおもうのは強い不安があると考える。何を大切にしたいかがよくわからず混乱して不安になっている。何かが手に入れば幸せになれると勘違いしてしまう。非現実的な夢を語る人は満たされていない何かがあり極めて不安になっている。こんなはずではない、このままでいいのかという漠然とした不安の代用品が欲しい物であり、自分の生活を思い通りにしたいという欲望である。ミニマリストもゴミ屋敷と同じで、代償を思い通りにしたいという欲望の表れである。捨てるという行為は所有したいという欲望と同じで、根っこに何らかの不安がある。その不安の正体を手間暇かけて見極めたい。

 生きがいややりがいを作る必要は全くない。生きがい探しをしたくなるのは現状に不満や不安があるとき。問題を直視して不具合を調整すれば生きがいなど無用である。「せっかくこの世に生まれた」のではなく「たまたまこの世に生まれた」のである。

(3)感情に振り回されないために

 がんばれば、いつかは努力が報われる、自分が変わりさえすれば事態は好転するという考えは自分を追いつめてしまう。

 人間に喜怒哀楽があるのは当然である。感情が揺れても構わないが、波に巻き込まれたり、流されたりしないのが大事である。揺れても元に戻るヤジロベエを目指したい。人が感情に翻弄されるのは根本的に物ごとの認識を誤っているからである。立場、観念、執着にとらわれているのである。

 突然の怒りは自分が正しいと信じていることが本当にそうなのかを考えてみるとよい。人が怒るのは自分が正しいと信じているから。当座の怒りを鎮めるには物理的にその場を去る。床に座るのも良い。

 人脈も友達もいらない。他人の理解など誤解に過ぎない。合意の誤解である。どうしても良好な関係を維持したいという欲が出てくる。そもそも人間関係でみんな疲れているのに、なぜ友だちを増やしたいのか。

 本当の気持ちを離せるだけで人は救われることがある。

 死ぬことはいつでもできるからとりあえず、休んで落ち着こう。

(4)死に向かって今日を生きる

 後悔なんて抱えたまま生きればよい。

 どうして自分ばっかりこんな目に遭うのかと思い悩んだら、「自分が相手を許すこと」を許してみよう。