きまぶろ

本とアニメと気ままな生活のブログ

城下町の不思議と謎(山本博文)

 東大史料編纂所の教授が監修した本で、古地図と現代地図を比べて解説されている。第一部は天下人の城下町として、江戸城名古屋城大阪城。第二部では現存する天守のある城下町、第三部では、一度は見ておきたい城下町が紹介されている。最後に第四部で、古地図に見る城下町の機能について。

 以下に気になった城下町について。

 

名古屋城

 それまでの名古屋の中心地は織田信長の清須城で、低地にあり水害に弱かった。熱田台地の北西端に、慶長14年(1609年)徳川家康が築城および城下町の建設開始。北は低湿地、北西に木曽川、北東は山々で防衛に適した土地だった。清州の城下町を神社、寺院も含め七万人がそのまま移転し、清須越しと呼ばれる。

 三の丸には重臣、堀を隔てた東の山口地区には中級武士、三の丸の南には町人、その東や南には下級武士、北西には西からの侵入に備え武家地を、その外側には寺社を配置した。東西5.7km、南北6.1kmで、3つの大木戸の内側が範囲。

 尾張藩7代徳川宗春大須観音門前町遊郭や芝居小屋などを作り、藩の商業発展を促した。1660年(万治3年)の大火後に幅15間の広小路を作った。1700年の大火後に、幅7.2m(四間)の四軒道(しけみち)を作った。四間道の通りの東に土盛りをし、石垣の上には土蔵というスタイルができあがった。1724年の大火後には円頓寺が現在地に移り、名古屋市内では最古級の商店街として残っている。

 豊臣方との戦いに備える拠点だが、城下町の建設では豊臣家滅亡後を見据えていた。町人地は東西11列、南北9列の99区画で、北側2列を除き約100m四方の正方形になっていた。東西は御園町から久屋町まで、南北は片端町から広小路筋まで、現在の中区丸の内、錦周辺。本町通りには松坂屋の前身のいとう呉服店、地名の茶屋の由来となった茶屋家があったが、今はビジネス街になっている。

 町人区画のそれぞれの中央に主に浄土真宗の寺が20ほど配置された。現在の中区、東区にあたる城の東や南には、主に防衛目的として寺町が作られた。北や西は天然の地形で守られていたが、東や南は開けていたため、外郭部に寺院群を配置したのだ。東の飯田街道日蓮宗曹洞宗、南は臨済宗曹洞宗、浄土宗の寺院を配置し、南寺町とした。時おり一揆を起こし権力者に逆らってきた浄土真宗の寺は、当初は置かれなかった。

 堀川は福島正則が作った人工河川で、庄内川の水を城の堀を経由したのち堀川へと流れるようにした。熱田湊からの物資に輸送に使われた。堀川沿いには問屋、貯木場、米蔵などが立ち並んでいた。東岸には雨にぬれても構わない材木など、西岸には米、味噌、醤油など雨にぬれると困る物資が運ばれた。五条橋付近に石畳の荷揚げ場が残っている。

 

松本城

 徳川家康の後ろ盾を得て、小笠原定慶が町割りを行い、深志城が1582年(天正10年に)松本城と改められた。その後、1590年(天正18年)に、豊臣秀吉の命で松本城に入った石川数正(かずまさ)とその子、康長の時代に近代城郭としての松本城と城下町の基盤が形成された。東西に流れる女鳥羽川の北が武家地、南が町人地となった。

 城の正面に設置されていた升形(クランク状の土地)は、現在は多目的広場になっている。大手2丁目の西惣堀土塁公園には土塁の一部が整備、保存されている。

 松本城周辺には今でも道幅が狭く、入り組んだ形状となっている道が残っている。「鉤の手」、「T字路」、「食い違い」などは、防衛上、前方を見通せないように作られた。城の南から東を通り北へ抜ける善光寺街道沿いには町人地があった。本町通りでは北からの糸魚川街道、西からの野麦街道が交わり、賑わいを見せていた。

 江戸時代には中町通りに酒造屋、呉服問屋などが立ち並んでいたが、江戸末期から明治にかけての度重なる大火で焼失した。その後、火災に強い街づくりをめざし、現在のなまこ壁の土蔵が作られた。

  五層六階の天守が三重の堀で囲まれていた。

 

 

城下町の構成

 城下町は、城主やその家族の居館であり、支配機関でもある城を中心都市、城主の過信が住まう武家地(侍地)、商工業者が住まう町人地、寺社が建つ寺社地の3つのエリアで構成された。住居区は身分別に分離されていた。

 武家地の名残として、同心町、与力町、鷹匠町、御徒町鉄砲町などがある。町人地では職業別に居住空間が分けられることが多く、魚屋(うおや)町、米屋町、材木町、呉服町、大工町、鍛治屋町などの地名として残るものもある。

 小田原城のように城下町全体を堀や土塁で取り囲む「惣構(そうがまえ)」という構造を取っているものが多かった。惣構えは城の外郭であり、有事の際はここが防衛の最前線となった。

 また、松本城桑名城岡山城弘前城のように、城下の中心となる藩の施設や武家地は郭によって囲むが、町人地は街道増に配置する城下町もある。町人地は物資の輸送や商業の発展を目的として外に置かれ、有事には敵の見通しを遮る役目もあった。外縁部にある寺社は有事の際に軍団の駐屯地となった。